さくらんぼのアメリカ日記 子供の頃読んだ小説と人のキャパと

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子供の頃読んだ小説と人のキャパと 

子供の頃、風邪を引いて寝込むと、退屈しのぎに本棚にあった古い小説を片っ端から読んでいた時期があった。ポーター作の「森の乙女」もそんな小説のひとつ。食べ物や手作りの洋服、レースといった私の大好きな話題が沢山出てくるので、かなり長いこと繰り返し愛読していたのだけれど、かなり不自然な訳語(男性言葉と女性言葉の取り違えとか)つじつまの合わない筋書きがちょっと気になっていた。たとえば、お母さんが最初に作ってくれたサンドイッチはブナの実ではないのに、翌日食べたサンドイッチの記載には、「味見をすると昨日のブナの実のよりもずっとおいしい」となっていたりとか...

で、少し前にひょんなことから、英語版「A Girl of the Limberlost」が電子ファイルでネットで無料で読めることが判明、夢中になって読んでみた。

いやあ、この本、昔昔の少女向け小説だけあって、道徳の教科書に使えそうな模範生を主人項にした道徳的な小説ですね。

っとそんなことはほっておいて、長年の謎だったいろいろなことは、日本語版が少し編集されていて細部がはしょられていたのが原因と判明。呼んでいて、???だった部分の謎がとけました。ブナの実のサンドイッチは、最初にお隣の小母さんが作ってくれたものだったのですね。

閑話休題、道徳的な話に戻りますが、主人公のエルノラが恋敵(?)のイディス・カーに、「全能の神様が皆ご存知ですわ。恥じなければならないようなことは何もしていませんから」というシーンがあった。まあ、「全能の神様」の部分は、それぞれ何を信仰しているかによって信ずるものに置き換えてもらえばよいと思うのだけれど...

ものすごっいまじめないい子発言なんだけれど、なんかそれを読んではっとした。最近のもやもやが一掃した気分。そうか、「他人」は関係ないんだなと。

ずっと前、人間関係で悩んでいた時、ほぼ同じ人間関係で苦労していたはずの超美人で超お嬢様で超人気者のブラジル人の同僚が、「私も以前はあなたみたいに悩んだのだけれど、人がどう思うかなんてことは絶対に気にしちゃだめよ。そんなことしてたら身がもたないから」と忠告してくれた。このアドバイス、今でもありがたく心に留めているつもりなのだけれど、時々忘れる。

以前読んだ別の方のブログでも、マザーテレサの言葉として、「最後にはあなたにもわかるでしょう。結局は、神とあなたしかいないのです」という言葉があった。これもいい言葉だと思ったのだkれど、やっぱ、すぐ忘れる。

で、うつうつとしていたら、エルノラちゃんのことの言葉。そうか、「あの人はこうなのに、どうして私ばっか。えい、ちょっとくらいずるしちゃえ、だって、み~んなみ~んなやっているじゃない」って思いたくなっていた時だったので、すごく新鮮だった。多分、私がなんらかのショートカットをしようが、ずるをしようが、そんなことは、だ~れも気がつかない。でもね、それで気が済むとか気が晴れるのかって言ったら、決してそんなことはない。逆にいやな思いをするだけじゃないかな。

最終的にそこにいるのは絶対者と自分のみ。あるいは、極限してしまえば、絶対者の姿を借りた自分自身と、その中でもっと小さく小さくまとまっている私の自我の二つしかない。絶対者の目から見た時の自分自身の行為、ふるまい。まあ、キッチンでつまみ食いしちゃうとかそういうのはちょっと置いておいて、もっと精神的なレベルで、絶対者の目に「善」あるいは「義」と認識される行為を自分はしているんだろうか?

そんなこと、改めて問うまでもなく、やっていないのはあきらかなんだけどさ。
ただ、このエルノラちゃんのように、「神様に対して恥ずかしいことはしていません」てか、日本風にいうならば「おてんとう様に恥ずかしいことはしていません」みたいにきっぱりと言い切れる生き方っていいなあって思った。

高校生の時に、友人が、「カンニングしようと思ってカンニングペーパーを作ったら、作っているうちに暗記しちゃった」と打ち明けてくれたことがある。彼女は、一生懸命お勉強しないといい点がとれないタイプだから、その気持ちはよくわかる。最後に、打ち明けてくれるところが彼女のよいところ。

仕事でも同じように(まあ、今の職場というよりも以前の職場の同僚に多いのだけれど)仕事の能力とか仕事量、質では絶対に勝負できないから、あちこちでごまかしてなんとか仕事をしているふりをしている人はたくさんいた。それをみるたびに、「なんだかなあ」と思って私も同じことをしたい気分になる。

でもね、「カンニングペーパーを作らないと赤点とっちゃう!」とパニクっていた友人に対して、「どうしよう、昨夜も寝ちゃった」と青くなりつつ、なぜかたまたま試験の前の10分間であわてて詰め込んだ箇所だけが試験に出るのでなんとかなってしまうSakulanboは、真っ青にはなりつつもカンニングペーパーを作る必要性はまったく感じなかった。

同様に、今の私には(そして過去の私にも)「仕事をしているふり」をする必要性は皆無。人のキャパは、努力と考え方次第でいくらでものびるとはいえ、努力できるかどうか、キャパを伸ばす柔軟な考え方ができるかどうかもその人の資質とおかれた状況次第。

キャパのある人間がキャパのない人を補うのは当然であって、キャパのあることに感謝こそすれ、「どうして私だけが...」なんて思う必要はないんじゃないのかな...って、やたら道徳臭い古い小説を読んで改めて思った。

ま、私の場合、キャパのたっぷりある人から助けてもらっているケースのほうがはるかに多いんだけどね。

コメント

私も少女の頃(笑)、よく『赤毛のアン』を読んでおいしそうなお菓子の描写にわくわくしたものでした。

それはそうと、Sakulanboさんのお料理はもちろん、「ひとりごと」も興味深く拝読しています。
マザーテレサの言葉、素敵ですね。
中国の「天知る地知る我知る人知る」と通じそうな。
いつも正直に、人と比較せずに生きよう、と私も思っています。でも難しいですよね。
Sakulanboさんのこと、遠い日本からいつも応援していますね。

こんにちは。
異端とされて葬られた「トマスの福音書」も突き詰めれば主と本人だけの関係と
述べていました。(だから異端なんですけどね。教会=世間様の存在否定ですから)
マザーテレサも当然火炙りの刑でしょうね。
「うまくいっている」なら、これはご自身の果実です。

sumire様

わあ、私も赤毛のアンは大好きでよく読みました。
実は、つい先日、誰かが英語の古本をおいていったので
もらってきて読み返そうと思っているところです。
私のつたないブログ、応援していただけてとても嬉しいです。

LaceyBlue様

マザーテレサはもともとアメリカの修道会と
そりが合わずに飛び出してしまったと聞きます。
どんな偉大な宗教でも、時代とともに形骸化して
しまうのは仕方がないのでしょうね。「将来は
こうなるであろう...」というイエスキリストの
言葉を待つまでもなく、ローマ帝国における、
キリスト教の確立以前のパウロの生前にそのような
兆しが見え始めていて、これを嘆いたパウロが
書簡をしたためていますね。
ぜ~んぶ聖書に書いてあるのですけれど、多くの
宗教団体は、都合の悪い部分は無視しますね。

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